仙覚律師  比企郡小川町ゆかりの万葉学問僧
平成15年(2003)仙覚が誕生してちょうど800年目にあたりました
 仙覚律師は、鎌倉時代の天台宗の学問僧であり、本格的な万葉集の註釈本『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)を完成させ、万葉研究の礎を築いた人物として知られています。仙覚は、若干十三歳(建保三年=1215)にして万葉研究を志し、寛元四年(1246)時の将軍の命により、万葉の校訂本を作り始めます。その研究の総仕上げを行ったのが、当地比企郡小川町であるとされているのです。仙覚の業績は、それ以前の万葉の諸写本を校合して定本を作り、これに注釈を加えたことにあります。文永六年(1269)完成の注釈本は、その後の万葉集の底本(正テキスト)として本流を成し、室町戦国を経て江戸時代の契沖、荷田春満、賀茂真淵、鹿持雅澄らの研究を導き、我が国の国文学史上において高く評価されているものです。
 言うまでもなく万葉集は、古事記、日本書紀とともに、我が国の黎明期における社会状況や人々の生活の有り様を現在に伝える比類なき貴重な文化遺産です。
仙覚は万葉集が今日に伝えられることになった最大の功労者であり、近世を代表する万葉研究者であり著名歌人でもある佐佐木信綱(東京帝國大学)も、仙覚の仕事がなければ、万葉集の全体像は今日に伝来することはなかっただろうと述べています。
※ 仙覚は、通説では、建仁三年(1203)常陸国(茨城県)生まれとされていますが、諸説あってはっきりしません。出身も、比企一族というのが有力ですが、比企滅亡により鎌倉幕府からはなれた当地で学問にいそしみ、しかも宗尊親王と厚い親交を保つこともできたという特異な立場の人物です。
『萬葉集註釈』文永六年完成:表紙と冒頭部分(古写本)
西本願寺本『三十六家人集』の「赤人集」の部分)
 『萬葉集註釈』の巻二の奥付けには「文永六年姑洗二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷書写畢」と記されており、「麻師宇」が小川町の「増尾」地区と推定できることから、仙覚がこの地で研究を遂行したとされたものです。『萬葉集註釈』十巻は、文永六年(1269)の完成とされているので、建仁三年生まれの彼は人生の後年にこの地で万葉集研究の最後の仕上げをしたものと思われます。また、仙覚は、悉曇(しったん)というインドの音声に関する学問を駆使するなどし、それまで読みの不明な万葉152首に新たに訓点を加えることにも成功しています。建長五年、解読した歌に奏覧状を添えて後嵯峨上皇に献じた際、上皇はいたく感動し、仙覚の歌を続古今和歌集に加えられるとともに、次の歌を仙覚に下賜されました。歌から上皇が、如何に仙覚の業績を賛美していたか伺い知ることができるでしょう。
和歌の浦藻にうずもれて知らざりし 玉も残らずみがかれにけり
後嵯峨上皇  
 なお、同古写本の奥付には、その後建治元年(1275)に権律師玄覚が鎌倉の比企谷で仙覚の直筆本を人に写させたこと、さらに弘安三年(1280)に書写させた本を見て自分の見解を押し紙にして添付したことが記載されています。ちなみに、近世の万葉底本として用いられる『西本願寺本』は二十巻揃った写本として最古(鎌倉後期の書写)のもので、これは仙覚が寛元〜文永年間にかけて作成した注釈、いわゆる「仙覚本」の系譜を引くものとして最も信頼性の高いものとされています。足利義満が皇室に献上し、天文十一年(1542)に後奈良天皇が本願寺証如上人に下さったものが『西本願寺本』と呼ばれる所以です。
 仙覚が校勘に用いた古写本は十数種と言われますが、そのことごとくはすでに失われてしまいました。ゆえに、
もし仙覚のようないつどこぞで果てたかも知れぬ学問僧が、この地道な仕事を残さなければ、万葉集という我が国の民族的遺産は現代日本に伝わらなかったことでしょう。もちろん、大伴家持らが編纂した歌集にそれだけの魅力があったからには違いありませんが、万葉集の伝来史における仙覚の功績は高く評価されなければなりません。
奥付部:文永六年に武蔵国北方麻師宇郷で書写した旨の奥書がある。(仙覚在判)
さらに、建治元年(1275)11月8日に
権律師玄覚が鎌倉の比企谷で仙覚の直筆本を人に写させ、弘安三年(1280)には自分の見解を押し紙にして添付したとある。

仙 覚 の 残 し た 歌
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「NPO法人_仙覚万葉の会」 仙覚万葉人物伝
仙覚律師について:フラシュムービー版
「参 考」
  ・小川町の歴史 通史編上p191-(小川町)
  ・仙覚全集(佐佐木信綱)
  ・日本の古典「萬葉集」(集英社)
NPO法人『仙覚万葉の会』 
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