万葉の花とみどり
たちばな  橘  タチバナ
  橘は実さへ花さへその葉さへ
枝に霜降れどいや常葉の木 
聖武天皇 巻六 1009 
『読み』たちばなはみさえはなさえそのはさえ えにしもにふれどいやとこのき
『歌意』たちばなは、実も花も葉もりっぱであるが、その上、冬になって枝に霜が降りるようになってもますます栄える木である

初夏に白い花をつける。種類は多いが花の形状は類似している。
歴史とかかわりの深いその名
 
歌は聖武天皇が、葛城王(かつらぎおう)が臣籍に下り、橘姓を賜った際に、橘家がいつまでも栄えることを願って詠まれた歌である。天皇はその御心を、常緑樹の橘が青々と繁る様子を歌に込めたのではあるが、その後の橘家、そして大伴家にも厳しい命運が待っていたことになる。天皇は、橘諸兄を重用することで藤原家を牽制していたが、大伴家持も宮廷や和歌の世界でも諸兄と親密な関係を保っていた。橘諸兄は左大臣として最高位にあったが、次第に藤原氏が盛り返し、失意の底で没してしまった。その子、奈良麻呂は藤原仲麻呂に対し謀反を企てたが失敗、大伴家も不利な立場に追いやられてしまう。家持は、41歳にして因幡国守に左遷、そこで歌人としての生活を終えることになる。万葉集には橘を詠んだ歌が69首もあるが、家持の皇室や諸兄に対する想いが次の作品からも充分に伝わってくるようだ。
  常世物この橘のいや照りに わご大君はいまも見るごと 巻十八 4063
  大君は常盤にまさみ橘の 殿の橘ひた照りにして    巻十八 4064

田道間守(たじまもり)が持ち帰る
 日本書紀によると、十一代垂仁天皇の時、勅命を受けて常世の国(中国雲南省か)へ不老長寿の薬を求めて行った田道守が十年の長い間苦労してようやく薬を捜し求め持ち帰ったところ、すでに天皇はお亡くなりになっていた。このとき彼が持ち帰ったものが「トキジクノカグノコノミ」といい、この実を当地に蒔くとやがて芽をだしたのが橘(ミカンの原種)で、それからこの地を橘と呼ぶようになったという。彼は、黒砂糖も同時に持ち帰り、橘とともに薬として用いたので、後に密柑、薬、菓子の祖神として崇められるようになった。菓子屋に橘の屋号が多く用いられるのは、この縁によるものである。→橘寺の資料より
聖徳太子ゆかりの寺「橘寺
柑橘系の花はとれも良く似ている
管理者『妬持』の声
 長寿の象徴とか、縁起物、柑橘系の種類の話題も語りたかったのですが、それはまた別の機会に。橘寺のページも別に作成(画像だけですけど)しましたのでそちらもご覧下さい。花橘の画像を掲載しましたが、実の方の写真も欲しいですね。庭の夏みかんが冬にたわわに実ることを願ってはいるのですが。
 大伴妬持