万葉の花とみどり
やまあゐ 山藍 ヤマアイ

しなてる片足羽川のさ丹塗の 大橋の上ゆ紅の赤裳裾引き 山藍もち摺れる衣着てただひとり い渡らす児は若草の夫あるらむ

高橋虫麻呂 巻九 1742 
『読み』しなてるかたしばかわのさにぬりの おおはしのうえゆくれないのあかもすそひき やまあいもちすれるきぬきてただひとり いわたらすこはわかくさのつなあるらん
「歌意」
片足羽川の赤い橋の上を、紅花染めの赤い裾を引き、山藍のもち摺りの衣着て渡っていくあの娘には夫があるのだろうか、それとも・・・
これらは、類似種のダデアイ:ヤマアイの画像が入手できないのでしばらくはこれにて悪しからず。若い頃に株元でカットした物は濃い染料が得られる。
青色の摺り染めに
 
歌は、丹塗りの橋を渡る美しい娘を眺めて歌ったものだが、身にまとっている衣の色がこれまた美しい。赤い裳裾と青い山藍で摺った上着の色が橋とその背景に映える様子が目に浮かんでくるような歌である。ヤマアイは日本の自生種であり、後に渡来したタデアイの藍染めが一般化する以前に青色染めの材料とされていた。藍染めでいうところの染料の成分であるインジカン(インジゴの元になる物質)が少ないので、乾燥葉を固めてある程度の量とし、水分を加えて叩き、直接布に色素を擦りつけるような手法であったのではないかと考えられている。
 藍染めは、麻や綿などの植物繊維を容易に染め上げるので、今なお最もポピュラーな染色法である。しかし、不思議なことに「藍」の文字は万葉には冒頭歌のただ一首のみで、「青」や「縹」の文字すら見ることができません。「日本書紀」大化三年の七色十三階冠制には「縹色」を用いるべきことが記されているので、染料として「藍色」が大量に必要であったことは想像に難くないのだが、色の表記と実際の「古代の色」が必ずしも一致しないのが難しいところ。ある時点まではヤマアイやツユクサ(鴨頭草=つきくさ)が、青系の染料として使われていたものの、その後、堅牢度のより高い藍草に変わっていったものだろう。おそらくは、万葉時代と重なる7世紀後半の頃のことだろうが。

特殊な染色法
 万葉における「藍」の言及はただ一首のみなので、参考までにその後一般的になった縹色の染色法、「藍染め」について紹介する。いわゆる草木染めと呼ばれるものは、植物を煎じて灰汁による媒染で繊維に色素を吸着させる方法が一般的。ところが、ベニバナ染色と並びこの藍染めだけは例外で、全く違った手法が取られてきた。これは、藍を発酵させて色素を溶解、繊維を着色、空気中の酸素による酸化発色という染色法、「藍建て」と呼ばれるものなのだが、この化学的手法がいつごろから行われるようになったものか、どうもはっきりとはわからない。鎌倉武家社会が本格的な始まりで、特に江戸時代には、盛んに藍染めが行われていたはずなのだが、藍についての資料はあまり多くはないようだ。
 藍建てによる染色は、染料となる化学的性質をうまく利用したもので、工人達が長い年月を経て工夫されてきたものだ。藍草には染料インジゴのもとになるインジカンが含まれている。このインジカンは無色だが、紫外線や空気中の酸素により酸化され、青い染料のインジゴとなる。ところが、インジゴは水に不溶なのでそのままでは繊維にうまく吸着されない。そこで、いったんインジゴを発酵還元し、黄色の水溶性物質(ロイコ体=白藍)を作り、繊維に吸着後、空気の酸素にさらして酸化体のインジゴに戻すという凝った作業をしているのだ。
ダデアイの葉でたたき染め:空気中の酸素で次第に青変していくのがわかる。摺り染めとはこのようなイメージか。
秋にピンク色の花をつける
管理者『妬持』の声
 日本の伝統における「藍染め」の技法は、ベニバナやムラサキのそれと同等以上に位置づけられるべきなのに、万葉集に「藍」「縹」がほとんど見られないのはあまりにも寂しい。せっかく万葉時代の花とみどりの紹介をしているのに・・・。ということで、いっそのこと、このページに「タデアイ」による染色法を加えてしまおうと考えたわけです。なんか愚痴とも言い訳ともつかなくなってしまいました。結局、どなたか、万葉に「縹色」の言及がない理由について納得のいく説明を下さる方いらっしゃいませんか?
・・・と上記
のように求めたところ、A様より次のようなご意見を頂きました。なるほど、やはり藍染めの一般化は万葉以降と考えて良さそうですね。要旨を紹介致します。

 投稿者「A」様より:万葉集には、「ツユクサ」は9首も掲載されており、その使われ方を考えると当時の人が、「ツユクサ」による染色が色あせしやすいことを普遍的事実として知っていたことがわかります。藍染めが日本に紹介されたのがいつであるのかについては、諸説有り確実な史料はありませんが、万葉以降の文学や史料に藍や藍による縹色が百出することを考えますと、藍や藍染めが一般的に知られるようになるのは、万葉以降であったのではないかと思われます。ツユクサ自身が縹草と標記されることもあり、一時期はツユクサによる染色と藍染めが混乱していると思われる時代もあります。比較的受け入れやすい仮説としては、もともと日本にはツユクサによる染色があり、ツユクサは当時ツキクサと呼ばれ、その色はハナイロあるいはハナダイロ呼ばれていた。その後(万葉時代か?)中国から藍染めが紹介され「縹」の文字も一緒に紹介された。そのころツユクサも同じ青系の花なので、「縹」の文字を「はなだ」と呼んでしまった。このあたりの「花田」「縹」の混乱が現代の私達を混乱させることになるのです。しかし、原料の「藍」と「ツユクサ」の区別は混乱していないようです。「藍」や「藍染め」が万葉以降、一般的になると文学や史料にも登場するようになる。という仮説です。つまり、万葉時代(けっこう長いのですが)は、「藍」「藍染め」は日本に紹介されていたけれど、一般的ではなかった。という仮説です。

参考サイト:http://www.rite.or.jp/Japanese/labo/shokubutsu/topics/backno/c_commun/communis.htm
  管理者:大伴妬持